初めて臨床家として自分を認めた日

2020/8

信仰心の強い祖父に導かれるようにこの道に入ったわけであるが、果たして自分がやれる道なのか実に20数年迷っていた。

一応、論文が多いこともあり業界ではそこそこの知名度はある。

書籍もそこそこ認められている。

勉強会を通して育っていった後進は100名を下らないだろう。

人から見れば「オーexclamation」かもしれないが、本人は全然納得していない。

鍼一本であらゆる局面に対応しよう思っているから。

現実の壁に右往左往する自分を認めていなかったのだろう。

 

とある日、知人の勧め(騙されて)マニラ郊外のバルナバでボランティア治療をすることになった。

僕はいかにもボランティアしました爆弾的乗りは好みではない。自己満足か売名に思えるから。

もちろんそうではい方も多数おられることは知っている。そのような方は軽くボランティア活動を口にしたりはしないと思っている。

無医村で命を削りながら助産、教育、治療に励むT女史の生き方に興味を持ったことに尽きる。

情熱大陸でも紹介されたので知名度はおありなようであるが、僕にとってはそんなことより「どうしてそこまでやれるのか」の一点以外は興味がない。

自分がちゃんとこの人との眼をみて対峙できるのかを試したかった。

とにかく自分の今までを出してみよう。

たとえばゴミ山での生活。生きるという意味が観念論ではなく、すごくリアリティー。

来る患者はERかターミナルケア―。

何とか持てるすべてを出し結果を出したが、精神的な置き場がなく、2日目には自分自身の片耳の聞こえが悪くなっていた(耳管開放症のような症状)。

夜中分娩室に呼ばれチアノーゼ色の新生児をどうにかしてといわれる。生まれて10分くらい?まだ大きな産声は上げていないが、微かに呼吸はある。

胎盤部分剥離が7日以上続いた後の出産らしい。

日本ではあり得ないことばかりだったが、これには完全に立ち往生。

指を鍼に見立てながら上下の気海を交通させる。

その後肋骨に手を当てながら気を送る。

それをとにかく繰り返した。

頭の中は真っ白で、とにかく僕の命を少し上げるから頑張れ、という感じで、論理的にそうしたわけではない。

時間感覚が全く飛んでしまったので、5分後か30分後かわからないが、とにかく肌の色が急に赤みがかり大きな声で泣いてくれた。

良かったとかは後の話、とにかく終わったと言う感じの脱力感しかなかった。

臨床家は大きな山を幾つか越えなければならない。

ひと山超えた瞬間であった。

この子の生命力のお蔭で山を越えることが出来た。

相手との関係の中でしか臨床家は育たないことを体に刻まれた気がした。

そしてこれ以後、少しだが息を抜いて包み込む感じの治療が出来るようになる。

 

 

※新着時期を過ぎると左サイドバー《臨床のお話》に収められています。