2020/7
3年前にアメブロに書いたもののリブログである
徒然草を持ち出すまでもなく、自然は無常であり、常に同じ状態はないという法則性のみは不変である。自然を大宇宙、人を小宇宙と捉える伝統医学を標榜する者なら、当然に人も自然のうちであるから、無常の枠内と捉える。
今の自分と1時間後の自分とは違う。
ただ時折、人は執着という魔物に襲われる。
執着とは過去の失敗、恐怖あるいは死別や栄光を絶対化すると成り立ちやすい。
カウンセラーの先生や鍼灸師の先生(?)から執着を捨てなさい、と言われる。
すてられない、無理である。元々ないのであるから。
執着は私に着くのではなく、私の名前にしか付着しない。
おなじ体験は二度と起きない。過去と似ている体験というのが限界だろう。したがって新たな体験しかできないのである。となれば逆に過去の成功体験に固執することもできないということになる。
社会の自分の役割が大きくなると、不変の自分を忘れてしまう。ネコの額で解ることが解らなくなる。複雑な思考に長ける分、シンプルな信実を落としてしまう。
こういう人が実に多い。成功体験に固執する
これが集団化するとややこしい。
大企業から国まであらゆるところで見られる。
歴史から見れば疫病に天変地異が加わると、戦争あるいは大不況と繋がってゆく。
激動の中にあっても「変わらない私が」旧態依然とした施策を行っているようでは滅亡に向かっちゃうしかないでしょう
疫病から滅亡までの過程が法則性のように言われるのは、人がいかに無常なものかをすぐに忘れてしまうことの証左であろう。
変わりましょうではない。
変わっているのです。
意識だけは錯覚し変わらないと思っているだけなのです。
〜立場を変えたり、自分に付いたレッテルを剥がしたりしながら意識を揺さぶらないと〜意識は無常の中の不変になってしまうように思う。
※新着時期を過ぎると左サイドバー《院長の呟き》に収められています。