今日から11月です。温かい鍋をつつく姿を回想しながら、心穏やかに、焦らず、怒らず、無駄なエネルギーを消耗しないようにしたいものです。昨日も韓ドラを見ていました(洪国栄:ホングギョン第7,8話)。 ある王様が非業の死を遂げた母の慈しんでいます。ただ、その慈しみ方が面白いのです。世間とかなりズレています。
我が国でも天皇家のお墓は稜ですね。小学生で習う仁徳天皇陵がこれです。 この御坊堂は政局に巻き込まれ、罪人扱いにされました。 よって墓は稜とは呼ばれず、単に墓と呼ばれるわけです。
話を戻しますが、この王は政敵と暗闘しながら、10数年かけて墓から園に呼び名を変えました。最終目標は稜まで昇格させることです。さすが儒教のお国です。すごい『孝』です。 しかしドラマとはいえ、強い違和感を感じてしまいます。何に違和感を感じたかを後で考えてみました。
この王様に世間がありません。正確には宮中での出来事のみが世間です。 その証拠に、庶民は最初から王様の御母様の墓だから稜と呼んでいます。 世間では、ある特定の対象にしかリアリティーを感じない人は少なからずいます。
数学者は数字の世界にリアリティーを感じるのではないでしょうか? この国の政治家は永田町の政局が最もリアリティーを感じているように見えます。 社保疔は、数字合わせが目下のリアリィーではないでしょうか?
学問バカと揶揄される人もこの傾向が強いででしょう?
病気で苦しんでいる人もそうです。
リアリティーの世界が近眼的になりやすい傾向をもちます。
世間に流されるという意味ではありません。『下々(しもじも)の皆さん、私は庶民派だから、スーパーを15分も廻りました、偉いでしょう。カップラーメンは400円でしたっけ。では、オークラでディナーがありますから、後は良きに計らってください』って感じの人がもしいたら、早く稜を作ってあげたくなります。 『君子に義あり』、これは一国民からの諫言です。