杉山和一(すぎやまわいち)は江戸中期の医家である。鍼灸学校では針管を作った人として習います。
武家の子として生まれるも、生来眼が見えず、家督競争からはみ出します。当時武家の子として生まれても、家督が継げない者は、医家、僧侶、建築技師になるのが相場でした。
和一は例にもれず、医家を目指しますが、不器用で鍼が一向に上達しません。江ノ島神社に願掛け(もちろん鍼の上達を願う)に出かけます。その甲斐があってが、後に針管(鍼を痛くなく刺すための筒)を発明します(伝説らしいが・・・)。
これ以後、追い風に乗るような人生を歩み出します。晩年は関東検校(けんぎょう)となり、大奥付きの御典医にまで出世します。
検校とは、今風にいえば全国盲人協会会長といったところで、ギルド制のこの組織は、盲人の専売的職業である琵琶弾き、按摩、高利貸しなどの組合で、上に行けば行くほど、上納金が入る仕組みとなっています。和一はそこのトップということです。その収入たるや10万石の大名に匹敵したといいます。
そなみにその中の按摩組合なら、最下位の役職が座頭で、座頭の市さんはテレビでお馴染みの座頭市ということになります。
あるとき将軍の難病を治したとき、「褒美に何か欲しいか?」ときかれ、「眼が欲しい」と答えます。困った将軍は老中と相談し、本所ふたつ目に屋敷を与えたそうです。粋な話ですね。
後に和一は世界初の国立盲学校を設立し、世界史にその名を刻みます。その流れは東京教育大学−筑波大学と受け継がれ、世界の盲人教育の範となる。
運を掴み取った男はしっかりと世の中に恩を返しをしたということでしょうか。