2020/5
よっぽど頭が悪くなければ、ある事象を左から見るのと右からみるのでは違ったように見えることは知っている。
でもそれを遂行できるかとなると、ほとんどの人ができないだろう。
とくに良くも悪くも気になる相手のことだったら尚更にできない。
気にしすぎるとは、集中しすぎていて俯瞰できないということ。
心にゆとりがなくなっているということ。
東洋医学なら肝の病理。
良い意味なら、好き過ぎてすべてが《あまたもえくぼ》で終わるだけだからまだかわいらしいかも。でも結婚詐欺はこれを利用するから気をつけよう。
ちょっとでも悪い印象をもった人、嫌いな人なら、その人のやることなすことはどう見えるのだろうか?
嫌いとは、どうも思っていない人より気にしている、心に留まっているということ。
色々な角度からその人のやることを解釈する余裕はないだろう。
挙句の果てに自分のシンパ(自分と違う意見を言わないと確信する人)の人に意見を尋ね、肯定され(するわぁ~)、ますます自分の解釈の正しさに入り込む。
こういう人の正義の解釈は実に怖いと感じることがある。
でも国家間から個人の付き合いまで、大半がこんな思考パターンで動いている。
それゆえ物の発達ほど、人の心は発達しないのだろう。
ギリシャ時代の一番のお金持ちより便利な生活をする現代人もソクラテスの思考を超える人はほぼいないということ。
一度・・・・・
相手と立場を置き換える。
今と真逆な思考をしてみる。
このふたつだけでも習慣化してみるとずいぶん違った風景にたどり着く。
自分もこうありたい(できてはいないのだ((´∀`))ケラケラ)。
