歴史

漢方の歴史

魂魄(こんぱく)@

伝統医学の世界観では魂も魄も大事な精神作用です。

まず道教観では以下のように考えます。

魂は精神を司る気、魄は肉体を司る気を指します。

その後、陰陽論と結びつき魂は天に帰し、魄は地に帰すとしました。

それが民間で一般化する過程で、細分化し三魂七魄となります。

三魂は天魂、人魂、地魂である。

天魂は死んだら天に帰る気、人魂は墓に残る気、地魂は地に帰る気でで出来ています。

七魄は喜、怒、哀、懼、愛、惡、欲。怒り、哀しみ、おそれ、愛情、憎しみ、欲望のことです。

 

宋代に入ると朱子は気の運動形体について考察を深め、世の中のすべては気によって生じるものであり、

人も例外ではないと考えます。

人は精密な気(精気)で構成され、生を受けるのですが、この気が体内から天に向かい散じ、すべて出尽くすと死に至ると考えました。残った肉体は腐食し、土に帰ります。

この天に散じる気を魂という名から神に、土に帰る肉体(陰気)を魄から鬼という名に変えます。

朱子の考える気は伸縮するものなのですね。

魂魄(こんぱく)A

道教、儒教の考えを踏まえ、伝統医学での魂、魄を考えると、

 

魂は精神を司る気であり、肝に宿るされています。

判断、思惟などです。

肝という外界との適応力に長ける臓腑の中で、少しづつ育ってゆきます。

はある意味で学習能力があるのです。

 

は肉体を司る気です。肺に宿ります。

肺も外界との調整能力に長ける臓腑です。

ただし、肝の外界適応力は理解や感情を伴う社会関係、人間関係に対する適応力ですが、

肺のそれは、実際の環境(温度、湿度など)に対する適応を指します。

そこで魄は今でいうところの恒常性維持などの強さにあらわれることもあります。

また、元来の運動能力の優劣も魄によるところが大きいと唱える方もおります。

 

 

世界四大医学

昔、中学校で習った世界四大文明を覚えていますか?  

黄河、インダス、チグリス・ユーフラテスそしてナイルの4つの地域に流れる大河のほとりで栄えた文明を指しましたね。医学にも古代より四大医学があります。

ただ、残念なことにナイル流域の医学は、現存しておらず、代わりにヨーロッパの医学を入れ、四大医学と呼びます。黄河流域の医学は、中国伝統医学といい、略称し、中医学といい、連綿と現在も続いています。ここから派生した医学は東南アジアの民族医学に発展します。日本では漢方、朝鮮半島は東医学、ベトナムでは古医学と呼ばれます。漢方薬、鍼灸、気功、按摩などです。

インダス川流域の医学はアユルベーダーといい、広い意味ではヨーガもこの仲間です。

チグリス・ユーフラテス川流域の医学はユナーニーと呼びます。

 

最後に出遅れたヨーロッパ医学は、中近東から数学、天文学、物理学などの豊富な知識を取り入れ、ルネッサンスを経て、近代医学へと変貌します。

ゼンマイ時計の誕生で、人の体は時計のように《部分の集合で成り立つ》という認識ができます。

さらに蒸気機関車の登場で、何キロ走るかが、石炭の消費量で計算されるようになると、これが医学に転用され、すべての指標は数字化されるという、神に代わる信仰が生まれます。

 

後世の伝統医学に影響を与えた三思想

古代の陰陽論・五行論・天人合一説を除き、伝統医学に影響を与えた思想は三つある。唐代の仙家思想、宋代の朱子学、そして近代の西洋医学である。

唐の都長安は当時世界一の大都市。あらゆる民族が集まり、あらゆる思想が入り乱れる。青い眼の大臣がいたのもこの頃。科挙にさえ受かれば民族を問わない大人の都市である。

一方不老不死を求める仙家思想も隆盛を極める。山に篭り薬の研究に没頭する。もちろん不老不死薬を作るためである。ここで薬(処方)の数が一挙に増えることになる。

ときを経て、南宋時代。ある意味忘れ去られていた思想が復活する。儒教である。都会の思想といわれる儒教は、その形式論の強さから半ば形骸化する。そこに新しい光を吹き込んだのが朱子。性理学という新解釈の元、新儒教の道を開く。この思想の影響を受けた伝統医学は、認識を進化させ、次代の金元の四大家に連なることになる。

清末に西洋医学が導入され伝統医学との融合が図られる。後に作られる鎮肝息風湯、冠心二号方は病名処方に近く、それぞれ高血圧、心筋梗塞の臭いがする。

また近代になり医学教育の形式が徒弟制から集団制(大学)に変容する。以心伝心の世界から教科書の世界になったといってもよい。システム論として弁証論治が整理され現代に至ることになる。

ちなみにこれを昭和40〜50年代に輸入した日本では、臨床家のコマ不足もあり、教科書から臨床への応用にてこずる時代があった。この時代に流行したのが「教科書中医学」という言葉である。某中医系専門誌から筆者はこの教科書中医学の打破を依頼され、5年に及ぶ連載を担当する。 

以下はその連載を修正し、昨年出版した「中医鍼灸そこが知りたい」の序文である。

・・・次項に続く・・・・

教科書中医学

・・・・前項より続く

『中医鍼灸そこが知りたい』・序文より

13年前、東洋学術出版社社長山本氏に新宿の喫茶店に呼び出され、季刊誌「中医臨床」への連載依頼を受ける。
表裏ふたつのお題を頂戴する。表の顔は「初級者のレベルアップ」であり、裏の課題として「教科書中医学の打破」が与えられる。
汗をかきながら真剣に語る山本社長の顔が非常に遠くに見えたことを鮮明に記憶する。
他誌に連載をもっていたとはいえ、30代の半ばの奴がやる仕事としてはいささか荷が重く、他に適任者がごまんといるだろうにという思いが強くある。まだまだ顔じゃない私で大丈夫なのだろうか?という心境であった。
編集部にいた載昭宇氏(現東京有明医療大学助教授)の強い推薦もあり、引ける状況にはなく渋々承諾はする。ただ「教科書中医学の打破」という難問は、器を超えた課題と自覚するため、不安が先行する形でのスタートとなった。
当時は中医鍼灸の定着期である。導入期ではないにせよ、まだまだ中医鍼灸と他流派の比較論が花盛りで、色々な場所に出向いては言語規定の明確さや中医の論理性の高さなどを伝えなければならない。端から喧嘩を仕掛けてくる者もいる。2,3度攻撃されれば、鈍い筆者であっても相手の意図が読めてくる。
そんな中で生まれたのが「教科書中医学」という造語である。誰が言い出したかは定かではないが、理屈ばかりで腹の上で臨床をしていないという批判を端的に言い表した言葉がこの「教科書中医学」であった。
自身、教科書中医学といわれても、患者のからだに聞かない臨床などあるわけがないと思っており、どうしてそう言われるのかな?と不思議で、せいぜい論理性が高いぶん、技術ウェートが低くても成り立ちやすいというくらいの認識でしかない。これでは打破するための戦略・戦術など立てようがない。
連載途中で、定着期の常である初級レベルの者が圧倒的多数を占め、中級以上あるいは教育者が極めて少ないことに由来する一時現象であると気づく。過渡期という言葉が最も適当といえようか。人口比率に喩えれば、若者が多く、中年以降は少ないのと同じであり、時間とともに死語になるだろうと予測し、気持ちがずいぶん楽になる。
新しい学問は導入、定着、発展、継承という順で進む。近代で伝統医学の断絶がある以上、現代中医学は新しい学問として導入されることになる。個人としては入門、初級、中級、上級の道を歩む。
当時、初級を3歩出て、中級に片手が届くかどうかという時期にあるという明確な自覚を持つ。
ならば自身がやってきたことを整理し伝え、皆で中級に行きましょうという姿勢に立てば、表裏両課題が一挙に解決すると考えた。
もちろん個の力はたかが知れている。そういう意識をもった仲間を増やせば加速度が増すとも考え、7人の志を同じくする者と三旗塾を立ち上げる。
折しも立ち上げて10年の節目を迎えた今年、現編集長井上氏から修正を加え出版するという話しを頂く。忘れずに読み返してくださったことに感謝の意の表す次第である。

漢方という名称

漢方(かんぽう)は日本伝統医学の一般的な言い方ですが、その名称の誕生は、比較的新しく江戸時代中期あたりです。

この時期、オランダを経由して新しい医術(西洋医学の前身)が輸入されます。これを蘭方(らんぽう)と呼び、以来元々あった伝統医学を漢方と呼ぶようになります。

それまでは、ただの方(ほう)、あるいは医方(いほう)と読んでいます。ひとつしかなかったので、区別する必要がなかったわけですね。

方には医学あるいは医術という意味があります。

西洋医学に投薬、手術、注射、リハビリなど の治療方法があるように、漢方にも治療方法があります。漢方薬、鍼灸、按摩、気功、薬膳などがその治療方法に相当します。漢方薬だけが漢方の治療ではありません。

漢方や鍼灸などの治療法は、当然ながら、漢方の理論に沿っておこなわなければなりません。注射や手術が西洋医学の理論に則りおこなうのと同じです。

漢方の理論は、中国の古代哲学である陰陽五行論と天人合一の考えが基本です。

陰陽論は、ものをふたつに細分化してゆく思考法です。対象を不可分と認識しつつ、陽的性質と陰的性質に分けてゆくいます。01.01が基本のコンピューター理論に近い考え方です。 たとえば内臓は、陰的性質の臓と陽的性質の腑に分けてゆきます。

五行論は自然界に5つの性質(木、火、土、金、水)があると考え、それぞれの臓腑・器官は、この5つの性質をもちつつ、その混合比率の違いにより、特有の性質を有するようになるという考え方です。

大きくいえば、猫猫になるか人わーい(嬉しい顔)になるかもこの比率で決まります。

天人合一は、自然界と人は同じ性質をもつという考え方です。ツボの名前に×谷、×山、▲渓、◇風などがやたらに多いのは、自然界との一致を考えたからに他なりません。

1年が365日、ツボは365穴(時代により変遷があります)、月の満ち欠けは28日、陰を代表する女性の生理周期は28日です。

 

これらの考え方を基礎に発展し続けた医学なのです。 漢方というものは。

○漢7代皇帝武帝は、儒教を国法と定め、解剖学を禁止します。これ以後、見えるところから内臓などの中側を推察する診断法が発達してゆきます。

鍼灸院へゆくと、最初に手首のところの脈を診るのは、臓腑の状態や気血の流れを脈という触れることが出来る場所から推理しようとしているのです。間違っても脈拍を取っているのではありません。

○唐代には仙家思想が加わり、不老長寿を求め、錬金術が発達します。この過程で、現在でも使われている漢方薬がたくさん作られます。また西域との交流が盛んになり、それまで中国にはない生薬が入手出来るようになります。

○宋代に新儒教というべき朱子学が提出され、後に金元医学と呼ばれる新発見の思想的基礎が出来ます。

○この金元医学の成果を取り入れたのが戦国〜江戸の漢方です。後世派(ごせは)といいます。

○大陸ではその後に明清時代へと移ります。とくに清代では温病学とそれに伴う舌診という診断法が確立したのですが、我が国では江戸幕府の鎖国時代に入り、認知されるのに昭和まで待たなければなりません。この間200年は悠にありますもうやだ〜(悲しい顔)

○この明清までの成果をまとめ、整理して、西洋医学のシステム論で再構築し、近代教育に載せたものを中医学といいいます。厳密には、元々の中国伝統医学と区別が必要です。

 ☆☆☆漢方という名称は比較的新しいものの、その医術は古く、平安時代には、すでに宮廷内に医科大に相当する教育システムがありました。

あるときは先端の中国伝統医学を輸入し、またあるときは輸入を止め、独自にアレンジしながら発展させ、また最先端の医学を輸入して、新風を起こす。この繰り返しが漢方の歴史といって過言ではありません。

元来、漢方を学ぶには漢文に知識が不可欠です。今でも漢文もしくは中文で医書を読めないのならお話しになりません。当時漢文に秀でていたのは、お経を読んでいたお坊さんですね。つまりお坊さんが医者を兼ねていたわけです。テレビで時代劇を見ると、江戸前までは医者が袈裟を着ています。 もちろん頭は坊主ですふらふらむかっ(怒り)

お坊さんは偉大です。医者であり、文化人であり、最高の知識人でもあります。

公衆衛生を定着させたのもお坊さんの力です。お寺にお風呂をもらいにゆくとき、着替えを包んだ布を風呂敷といいますが、当時は蒸し風呂で、お尻が焼けないように、その布を下に敷いたことが風呂敷の由来です。歯磨きの習慣もお寺経由です。

江戸時代に儒教(朱子学)が盛んになると、儒家は当然漢文を読むわけです。この人達の一部が医者になります。これを儒医といいました。服装も袈裟から裃に変わりますね。ちなみに今、様々な事件で話題のお相撲も、江戸時代の行事さんは裃です。明治になると神主さんのような服装に変身します。

○明治に入ると、事情が一変します。ヨーロッパ以外のものは古くてだめだ、これからはヨーロッパに習おうという論調が多数派を占めます。

漢方も例外ではなく、西洋医学を修めないと、医師免許が交付されなくなりなります。試験科目がすべて西洋医学の科目になり、漢方を勉強しても医者になれなくなったわけです。

それ以後、衰退期を経て、昭和〜平成と再復活を遂げるわけですが、その間漢方薬と鍼灸の理論である漢方理論が別々に発達してしまい現在に至っています。

中国、韓国にはそれぞれの伝統医学を教育する六年生の医科大があります。アメリカ、カナダにもそれに準ずる施設が出来つつあります。

経済同様、伝統医学のバラガゴス諸島といわれる日が来ないことを切に願って、長文になりましたが、締めといたします。ありがとうございました。

医家の超名門 丹波家 (医界から異界へ)

ときは平安時代、現存する日本最古の医学書である医心方の著者といえば丹波康頼である。漢方家なら知らない人はいないでしょうがく〜(落胆した顔)

渡来人の末裔である丹波家やそのさらに傍流である多紀家は、こののち医家の名門として、あるいは考証学の名門として名を馳せます。日本医学史で、この二家を外すことは不可能でしょう。

政治権力者の影に常に丹波あり、といったところでしょう。

このずっっっっと末裔が、大霊界で有名なGメン75TVの丹波哲郎です。御祖父は確か東京薬科大学の創始者だったと記憶します。

ということは 丹波家は医学に飽きたらず、霊界まで突き進んだということでしょうか?(非礼な物言いをお許し下さい) 

 

曲直瀬玄朔 戦国勇者が命を預けた男

曲直瀬玄朔(まなせげんさく)は戦国〜江戸にかけて活躍した医者である。養父は曲直瀬道三(まなせどうざん)といって、後世派(ごせは)の創始者でした。以後、明治維新を迎えるまで、医学界は、この後世派が主導権を握ることになります。

玄朔は当時の有名人をことごとく診察しております。家康(徳川)、秀次(豊臣)、利家(前田)、淀の方など数え上げたらきりがありません。この臨床報告集が、。『医学天正記』という名で残っています。それを見ると、秀次と淀の方の症例が突出して面白い。時期は違うが、二人とも『気鬱による喘』を患う。今流にいえばストレス性喘息発作あるいは心身症により呼吸困難といったところです。
関白秀次は、先の関白で当時の絶対権力者である秀吉に待望の子供(秀頼)が生まれた2ヶ月後に診察で、淀の方はちょうど徳川との権力闘争の渦中の診察であります。お二方ともガチガチのストロング・ストレスが溜まっていることは想像に難くないですね。
この本の愛読者であった司馬遼太郎氏は、この臨床報告から、淀の方が常に不安でイライラした状態にあったと推察し、小説の中で(確か太平記だと記憶する)、眉間にしわを寄せ、マユを吊り上げた淀の方の像を描く。それ以来NHK大河ドラマを始め、民放各局も淀の方のメークは、吊りマユ顔が基本となる。 美人女優を配しても綺麗に見えないのこれによるのだ。
さすがは司馬遼太郎、ただ者ではない。病気から性格を推し量るとは。

 

岡本一抱 江戸最大の註解者

実はこの人、ある有名な人の実弟である。

兄は浄瑠璃・曽根崎心中で有名な近松門左衛門である。

学統は曲直瀬道三の率いた後世派に連なる。古医書の注釈を試み、江戸時代最大の注釈者として名を残す。

代表的な著書は「和語本草綱目」「方意弁義」「医方大成論諺解」「切要指南」などがある。湯液と鍼灸の二道に精通した学術兼備の名医であり、また「北条時頼伝」を著した史学者でもある。

 

あるとき、兄(近松)に「無学者でもわかるような諺解を著しているが、原典を読まない医者が増え、人命を誤らせることにつながる」と忠告され、それ以降諺解書を作ることをやめた、という。簡単にいえば、註解「おまえさ、いいことしている思ってんだろうが、註解ばっかやると、ちゃんと原典も読まない奴が増え、レベルの低い医者が増えるだよ」と兄に言われ、考え直したということだろう。

何の学問を目指すにしても。「自分で考える」。これに凌ぐ宝はないということである。

懇切丁寧に教えると、人は育たない。そんな気がしている。

 

賀川玄悦 神の手を持つ男

賀川流産科の祖。

玄悦の特筆すべき功績は非常に多い。その中でも、妊娠時の正常胎位の発見は世界医学史に残る功績である。

それまで、子宮内での胎位に関する認識は、洋の東西を問わず、陣痛が始まるまで、頭が上で、臀部が下を向いていると考えられていた。

妊娠中期から頭が下にくるのを見つけたのは、この玄悦である。

玄悦は自書『産論』でそれを主張したが、当時賛同する者ははすぐ現れなかったという。

伝え聞くところでは、この事実を指の触覚で捉えたらしい。まさしく神の手をもつ男といえよう。 

 

前野良沢 義に生きた秀才

前野良沢(まえのりょうたく)は杉田玄白(すぎたげんぱく)とともに『解体新書』の著者です。中学の教科書にも載っているのでご存知の方も多いと思います。
しかしこの話、厳密にいえば間違っています。この難解な翻訳作業をリードしたのは確かに前野良沢ですが、出版の段に当たり、その翻訳の完成度の低さから、著者として自分の名前を削ってしまったです。凡人から見れば何と勿体ないことでしょう。
当時、新しい医学(蘭方)の訳本を出すということは、蘭方の第一人者として地位を得るということです。それを自分の理想像と乖離を理由に捨ててしまったのですから、現代なら『ノーベル賞をご辞退申し上げ候』と言ったに等しい行いです。
彼はその後、医学にとらわれず、建築学、天文学など当時西洋からもたらされる様々な学問の翻訳作業に携わります。もちろん自費であり、家を売り、食費にも困窮し、最後は野垂れ死にのような末路を迎えてしまいまる。
しかし彼の功績は西洋科学の吸収という点において燦然と輝くものである。近代日本の礎を築いたといっても過言ではありません。
一方の雄、杉田玄白は蘭方の第一人者として門前市をなしたといいいます。もちろん門人に囲まれて畳の上で大往生するわけです。

理想主義者と現実主義者。いったいどちらが幸せでしょうか?少なくとも良沢自身は自身の尊厳を守ったという点では幸福だったのではないでしょうか。

浅田宗白 江戸最後の名医

浅田宗白(あさだそうはく)は幕末の人である。大河ドラマでやった《新撰組》や《篤姫》と同じ時代との人と考えて下さい。
皇女和宮(14代将軍の正室;大河ドラマ篤姫では掘北真紀が熱演)の主治医であり、後に大正天皇の主治医にもな ります。当時の漢方家としては最高の実力者というところです。また政治家、社会運動家としての顔も持ちます。慈善事業もこなす。おまけに著作も多数ある。さすがスーパースターですね。
まず、将軍家と天皇家に縁あることから、ある二人の人物を引き合わせることになります。勝海舟と西郷隆盛です。いわゆる「大政奉還を決めた会談」をセッティングした影のフィクサーなのです。歴史的にみれば、
この会談で日本の方向が決まり、列強の餌食になるのをまぬがれたわけでありますから、その果たした役割は大きいといえるでしょう。
ときは明治に移りましょう。明治7年に医制が発布されます。簡単に言えば西洋医を学んだ者でなければ医師免許を与えないという法律ができます。
当時は圧倒的に漢方医の数が多いのですが、漢方医の子弟といえども西洋医を目指さなければ、家業を継げない状況に陥るわけです。まさに漢方消滅の危機です。
そこで漢方のすばらしさを捨ててはならないと立ち上がったのが浅田らである。いわゆる明治の漢方存続運動です。幾度の暗殺の危機を乗り越えた浅田は、この運動の成果を、国会で漢方存続の決選投票という形に持ち込んで行きます。ただ、浅田とは関係ありませんが、いつの世もメジャーの側はおごるものです。ちなみに江戸時代から西洋医の家柄であった手塚治虫の《陽だまりの樹々:題名が間違っていたらごめんなさい》では、メジャーな漢方医に屈辱を受ける西洋医の姿が描かれています。おごれる者は久しからずふらふら、ですね。
話を戻します。浅田らも、時代の趨勢には勝てず、10数票の差で敗れてしまいます。その後、漢方の復興は昭和まで待たなければなりません。何せ、この時代は「欧米のものはすべて取り入れろ」という時代のコンセプトがありましたからね・・・
浅田のすごさはこれに留まりません。診療の大半は無償で行われます。医療にかかる《人に貴賤なし》という思想の元、ほとんど診療費は取らなかったそうです。その葬式には3000人を越す一般の方がお見送りしたといいます。
彼の漢方的思考は、後に折衷派と呼ばれ、漢方3大流派のひとつを形成すします。上に立ち向かい、下に優しい。まさしく偉大なる義士であります。この気持ちを官僚や政治家に少しでも見習ってもらえるなら、この国は明るくなるでしょう。

杉山和一 世界初の障害者訓練センターを設立

杉山和一(すぎやまわいち)は江戸中期の医家である。鍼灸学校では針管を作った人として習います。
武家の子として生まれるも、生来眼が見えず、家督競争からはみ出します。当時武家の子として生まれても、家督が継げない者は、医家、僧侶、建築技師になるのが相場でした。
和一は例にもれず、医家を目指しますが、不器用で鍼が一向に上達しません。江ノ島神社に願掛け(もちろん鍼の上達を願う)に出かけます。その甲斐があってが、後に針管(鍼を痛くなく刺すための筒)を発明します(伝説らしいが・・・)。
これ以後、追い風に乗るような人生を歩み出します。晩年は関東検校(けんぎょう)となり、大奥付きの御典医にまで出世します。

検校とは、今風にいえば全国盲人協会会長といったところで、ギルド制のこの組織は、盲人の専売的職業である琵琶弾き、按摩、高利貸しなどの組合で、上に行けば行くほど、上納金が入る仕組みとなっています。和一はそこのトップということです。その収入たるや10万石の大名に匹敵したといいます。
そなみにその中の按摩組合なら、最下位の役職が座頭で、座頭の市さんはテレビでお馴染みの座頭市ということになります。
あるとき将軍の難病を治したとき、「褒美に何か欲しいか?」ときかれ、「眼が欲しい」と答えます。困った将軍は老中と相談し、本所ふたつ目に屋敷を与えたそうです。粋な話ですね。
後に和一は世界初の国立盲学校を設立し、世界史にその名を刻みます。その流れは東京教育大学−筑波大学と受け継がれ、世界の盲人教育の範となる。
運を掴み取った男はしっかりと世の中に恩を返しをしたということでしょうか。


中国の科挙制度(受験地獄の原型)

科挙制度は、中国独特の官僚登用制度です。隋代〜清代まで約1300年続き、この制度により天子(皇帝)は門閥に臆することなく、我が意に添う官僚を登用できたのです。
官僚を目指すには試験に合格しなければなりません。試験も時代により変化します。宋代を例に見てみましょう。まず俸禄(お給料)を貰える官僚(官使)になるには、本試験である会試を受ける必要があります。この資格を持つ者を生員(秀才、童生、貢生とも呼ぶ)と呼びます。戦前の旧帝大の学生といったところでしょう。
この員生になるのも容易なことではありません。大まかには県試(童試)、府試、院試を突破しなければなりません。こうして初めて本戦への受験資格を得ます。高校球児なら市・県大会と勝ち抜き、やっと関東大会でベスト4に残った感じに近い感じでしょうか?。
しかしこれで甲子園というほど甘くありません。何せ宋代ですら4億の民を抱えていた中国。〜多すぎますね(笑)〜。

 sekihi0.jpg 実は院試の前に郷試という予備試験があります。ここで受験者(生員)を1%まで絞りこむます。つまり甲子園ベスト4の実力者を百分の一まで絞り込むわけです。超が3つほど付くほどの難関です。この郷試は三日三晩続きます。独房みたいなところで…一族の期待を一身に背負い…極度の緊張状態の中で行われます。発狂する者も数知れず…。
これに受かると挙人と呼ばれ、周囲の扱いが一変します。砕けた言い方をすれば『俺が町のお大臣様です』。またその生家は名家となり、その一族は地方の名門ということになります。
郷試の翌年に挙人を集めた会試があります。これに受かると晴れて高級官僚です。首席合格者は会元、次席は亜魁と呼ばれました。合格者はさらに天子自らが行う殿試に進めます。この人達を貢士とも呼びます。
荊州ではここまで来る人がいなかったため、この地を天荒(未開の地)と呼びました。劉シュウという人が出て、初めて受かります。そこで、とんでも快挙ということで、破天荒という言葉が生まれます。
やっと最終試験の殿試です。朝廷内で天子みずから行う試験です。合格者は進士と呼ばれますが、特に首席合格者を状元、第二席を榜眼、第三席を探花と称しました。このクラスになると皇帝の一族から嫁をもらったりもします。つまり外戚として政権に携わることもあります。
この状元、榜眼、探花を最も輩出した町のひとつが紹興です。あの有名な紹興酒の発祥の地です。魯迅や周恩来の故郷といった方が馴染みやすいかも知れません。こういう歴史をもった中国です。官僚国家の看板を外す日は、まだまだ遠い先の話でしょう。

朝鮮医学の父・宮廷医官・許浚(ホジュン)

 

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許浚(ホジュン)は、あの有名な「東医宝鑑」の著者である。

東医宝鑑は僕も時折御世話になる。主に論文の参考資料として用いるが、漢方大百科事典のような趣がある。

 確か1613年に完成したと記憶する。その少し前には秀吉の朝鮮侵略があり、首都・漢陽も落城寸前の憂き目に遭う。比較的安定政権だった李氏朝鮮の中では動乱期といってもよいだろう。   

このホジュンの小説をドラマ化したものが「宮廷医官・ホジュン」である。両斑の子と生まれながら、正妻の子でないため、科挙試験を受けることが適わず、かつ両斑の身分も保障されない中、医学と出会い心医としての道を切り開いてゆく。
 心医とはホジュンの師匠の言葉で、患者の苦しみを受け止めて、その存在自身で相手の心を癒してしまうような医家を指す。ホジュンの素晴らしきところは、この目指す方向性に一点の曇りもない点であろう。生き方の基準に全くぶれがない。貧乏のどん底を味わうが、意に介さないところが素晴らしい。心が貧乏と正反対にある。ただしホジュンにも弱点がある。〜そこが人間らしくてよいのだが〜。
 愛する人の苦労を見てられないのである、ホジュンは…。妻や母親が飢え苦しむ姿に耐えられない。思わずお金儲けに走っちゃおうかと考えたりする(言い過ぎです−正当報酬を貰うだけなのですが…)。
 人は志があると、いかような苦労にも耐えることが出来ます。しかし、愛する者が苦労する姿を見るほど辛いことはありません。しかし、愛する者が何故苦労するかは、あなたの志を支持したからに他ありません。男性はここをよく間違えます。テレビの前でがんばれホジュンと叫んでしまいました(笑)。

革新運動の先駆者 後藤艮山

 艮山の愛称に『湯熊灸艮山』とある。

 これは温泉療法、熊の胆嚢、お灸を多用した艮山に由来する愛称である。

 この3法はいづれも気を動かす力、専門的には行気作用の強い治療法である。

 気を勢いよく動くかす。

 これは艮山の病気認識である『一気留滞説』に基づくものである。

 万病は気の滞りからなり、それを動かせば治ると考えた艮山。彼が注目したのが前述した治療法ということである。この病因論は日本独特の病因論として異才を放つ。

 門人は200名を超え、高弟にはあの香川修庵、山脇東洋がおり、後に古方派というオリジナル性の高い流派につながってゆく。

 彼は、これまでの医者の習いであった、剃髪&袈裟というお坊さんスタイルを改め、束髪&平服というスタイルに切り替える。1700年前後である。

○現代の鍼灸家も彼に学ぶことが大である。とくにお灸を用い、気を動かすことの重要性を捨ててはならない。パンチ

追伸:以前属していた研究会ではよく湯河原温泉のままねのいい気分(温泉)で 夏合宿を張った。46℃くらいはありそうな激熱温泉である。お湯が痛いのである。もちろん一気留滞説を体現するためである。