2020/4
コロナ禍を契機に社会全体から寛容的な部分が失われてきたように思える。
寛容とは好みとはちょっと違う
第一、好きなものに寛容なのは当たり前。
その実、嫌いだけれども、反対の意見だけれども、多様性の観点から、その意見は拝聴しましょう、耳を傾けましょういう姿勢が寛容な態度だと思う。
これが日本社会の特徴であり、いち早く民主主義が根付いた大きな理由でもある思う。
僕はコロナ禍という未曽有の危機の中で、一つの大きな期待をしていたことがある。
それは民間、政府、個人の思いが一つの方向に向いてくれること。オールジャパンの再結集を期待した。
残念ながら不寛容な方向に傾いている感じがする。
政府は世論は気にしているが、国民の声を聴こうとしない。
国民も政府の声を聞こうとしない(あまりに語ってくないのだが)
政府と個人のみならず個人同士の連帯、こういう側面の崩壊が一番国力を削ぐ。
一介の鍼灸師の分を超えたことを書いているが、今一番必要なのは聞く力。
病態を分析するためにもちろん毎日聴くということに力を注ぐわけだが、そうではなく、聴くことで、体がほぐれた、気持ちが和らいだという感じになる聞き方にシフトしたい。
社会の空気を感受した患者さんはみーんな肝気鬱になっている
肝気鬱になると些細なことで苛立ち、心のキャパシティーは狭くなる。
だから寛容でなくなるのだろう。
※新着時期を過ぎると左サイドバー《院長の呟き》に収められています。